言語は心と異なるという言説は真理だと思うんだけど、たしかに我々は言語で持って心を表象しながら生きてきたし、きっとこれからもそうする。

ただ心から切り離された言語によって、「これがわたしの心ですよ」と他者に提示するのに相応の抵抗を抱く人はたしかにいて、その抵抗の度合いによって自分の心を他者に提示できる人とそうでない人というものは区切られてくるんだろうな。

ここにおける1番の悪(というと言葉が強いか)は、言語をマスやすでにあるものから借りてくることによって自分の心をマスに仮託し、表象することをサボっている人たちだと思う。

あまつさえマスが心を動かされている、つまりブームになっているものに対してほんとうに興味を抱くのではなく、マスに帰属したいという気持ち「流行ってるから見る、はい気に入りました」というような短いインターバルでもってブームへの好意の表明と帰属を示し、マスが話す言葉でマスの好きなもののことを話すような動きは断じられて然れと思う。

 

何が言いたいかというと僕ヤバやチェンソーマンの感想を天才とか地獄とかそんな味の濃い言葉だけでいうブームがあんまり好きじゃないってことサ